2010年05月15日

衣偏 その2

服を整理するたびいつもいつもいーーーっつも思うのは「夏服多過ぎ」ということ。暖房なしで過ごせる期間が1年の3分の1しかない国(この前計算してみて改めて驚いた。もう5月だけど今日も外で吐く息は白い)に6年も住んでるくせに袖のない服薄い服がやたらと多いのにいつも呆れてしまう。心動かされる冬物に出会うことが少ないせいもあると思うんだけど。だって着てみたいとか自分に似合う思う服がほとんど全部夏服なのだ。資料集やスケッチブックをめくってみてもこの格好で2月のベルリンを歩いたら死んでしまいそうな服しか載っていない。そして実際に作る服も圧倒的に袖のないもの短いもの薄物ばかり。冬仕様の服でこれぞと胸を張って世に出せるものはほぼ皆無に近い。単に夏が好きで夏服が好きというのみにあらず、「腕が動くといういちばん難しい部分から逃げている」という装苑賞候補者への山本耀司氏のお言葉に俺のことかと冷汗を流した人、挙手。
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衣偏 その1

自分で少しずつ服を選んで買い揃えたり作ったりしてコーディネートできるようになった10代前半の頃からかれこれ十数年以上、基本的にワードローブの組み立てが変わっていない。着古したものもう着ないものをまとめて処分して、では何を買い足そうかと考える時に選ぶアイテムにびっくりするくらい変化がないのだ。表面上はあれこれとっかえひっかえしているように見えて、基本的な構成要素は同じまま。ファッション誌のストリートスナップにはよくトップスは○○でボトムは●●、ミュールとバッグは××で買いましたとか書いてあるけど、私はいますぐあなたの外側にあるもの全部ひっぺがして見てみたい。あなたの財布やバッグや本棚の中身もブラウザのブックマークも全部裏返しにして、すっぱだかのあなたが何を身に付け何を選び何を纏ったら今のあなたになるのか、それを見てみたい。教えてほしい。自分の外側にあるものをいっぺん全部放り投げてもう一度下着から靴下からことごとく選び直してみたい。それでも今と全く同じ格好になりそうな気がしないでもないところがなんともむずむずするのだけれど。
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2010年04月03日

自主規制 or not

いけません、と他者から禁じられることよりも、自分でいけない理由にちゃんと納得して自主規制をかけるほうが抑止力として当然強い。子どもを見ていて日々思うことでもあるし、自分で「食べちゃだめだなあ」と思うものよりも、医者に禁止されたもののほうが断然食べたくなる昨今の実感でもある。

ああ、生肉!生魚!生卵!今日の夜は牛丼なんだけど生卵かけたいよう!
カビのたっぷりついたとろとろチーズは加熱すれば大丈夫なのかな。
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2010年02月08日

君の笑顔が見たかったので尚更

ツボと微妙にずれたところを「いかがですか?」とずいずい押してこられても感じないどころかむしろもどかしく苛立ってガッカリを深めてしまうばかり、ということはよくある。ある程度好みを把握している相手に類推でこれも好きですか?と訊ねてハズレだった時のいたたまれなさよ。サッカーを知らない人とサッカーの話をするよりも、サッカー観を共有できないサッカーファンと話すほうが疲れる、と夫がいつか言っていた。よしもとばななさんも同じようなこと言ってたな。ストライクゾーンを遠く遠く離れた物を頂くよりも、自分の好みと重なってはいるけれど何かが決定的に違う物を貰ってしまった時のほうが困る、とか、そんな話だったと思う。難しい。むずかしいよね。だからこそ自分が素敵だと思ったものを相手も手放しで絶賛してくれたらそれこそ抱きつきたいくらいに嬉しいのだけれど。
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2009年12月27日

きしみ

どこが壊れているのかもわからないほどガタガタでも
全てが滑らかに噛み合って嘘のように順調な日々でも
日々の営為の質の差異こそあれ内容そのものに大きな差はないのだ。
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2009年11月17日

瞑目

誰かが亡くなると、自覚する。
自分が死なない人間ではなく
死なずに済んでいる人間だということを。
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2009年11月02日

「『私は』嫌だな」という態度でありたい

何に心を痛め、何を許し難く思い、何に悲しみ何に憤るか、という個々人の心の領域にずかずかと上がり込んで、相手の心の有り様のほうにやいのやいのと難癖つけては追い込むような振る舞いを見るたび、私は心の底から腹を立てる。例えば誰かがある行為を残酷だ、不愉快だ、許し難いと思う。それはいい。賛同者を求める。これもいい。当該行為の中止を申し入れる。これもいい。ただし訴えた側は己の感性を正当化してはならない。残酷さという定量化できない値で相手の行為を断罪してはならない。それを忘れて相手の振る舞いをあげつらい拳を振り上げる人間は「そんなこと言うならお前のあのときのアレのほうがもっと残酷じゃないかー」という不毛このうえない粗探し合戦を覚悟したほうがいい。一度たりとも罪を犯したことのない者だけが石を投げよ。
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2009年08月09日

ありがとうとかごめんねとか

行動を伴わない感謝の言葉は
安易にこぼれ落ちた謝罪の言葉は
免罪符と同じなのだ
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2009年02月19日

いろいろ今更すぎて恥ずかしくさえあることを書くよ

心動かされるひとやものごととの出会いが生きることの全てだ。

と、なんだかえらくしみじみ感じ入ってしまう出来事が近頃多すぎて
もういちいち泣いたりしないけど
ただただ、とにかく生きよう、長生きしよう、と思うよ。
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2008年11月20日

誰かにとっての

私の知る誰かにとっての
まだ見ぬ誰かにとっての
大切なものをつくりたい
必要とされるものをつくりたい

本当はなくても全然困らないような
余計なものばかりをごてごてと生みだして
あたかも「素敵なもの」であるかのようなふりをして
それを売ってお金をもらうなんて犯罪じゃないか。
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2008年06月12日

広く 狭く

所用のついでにこちらに立ち寄ってもらい
オフで会うことになっていた遠方のマイミクさんとの約束が
先日の高熱でキャンセルになってしまった、その少し後
件のマイミクさんが日記で
「進んでゆけばゆくほど、世界は狭くなってゆくのではないか」
ということを言っておられて
ああこれは惜しいことをしてしまった、とタイミングの悪さを悔やむ。

私はそれとは正反対に
世界とは進んでゆけばゆくほど
内にも外にも際限なく広がってゆくものだと常々思う一方で
広がりゆくこの世界の大半は
見ることも、味わうことも、触れることもできずに
「そこに在る」ということを知ることだけで精一杯であり
何を選び何を選ばないかの選択が
拡がりゆく世界を確実に区切ってゆく、ということもまた実感しているので。

そんな話ができたらすごく楽しかった、かもしれないのになあ。



作ってみたいもの、触れてみたい素材は山のようにあるのだけれど
今はとにかく手を動かしてみる前にまず吟味しなくてはならない。
考えるより先に体が動く、その反射神経を忘れたくはないのだけれど
ひたすら黙々と指先を働かせることが
常に正しい答えを導いてくれるとは限らないのだ。
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2008年04月19日

私的経験論

実体験に勝るものなし、ということの真実を強く強く肯定しつつも
実体験の有無のみで思考や言動が限定されることに同じくらい強く反発します。

正確に言うと、当事者でない、ただそれだけの理由で
「○○したことのない人にはわかるまい」だの
「本当の●●を知らない人にそんなことを言って欲しくない」だのと
簡単に人を締め出すような態度が好きではない。

よく考えもせずに「自分は××ではないから」と安易に投げ出してしまうこともまた
浅薄な共感や理解した「つもり」と同じくらいに、受け容れがたい。

当事者以外の人間には慮るよすがすらないことが世の中にはいくらでもあり
当事者以外の人間がそうやすやすと同じ境地に辿り着けるはずもないのですが
冗談めかして、互いに笑って話せるような他愛ないことについてならばいざ知らず
そうでないならば経験の有無だけで簡単にそこに境界線を引いてしまいたくはないのです。
締め出す側にとっても締め出される側にとっても、それは一種の怠慢ではないだろうかと。



自分が当事者であるならば、それに甘えないこと、拠りかからないこと。
自分が当事者でないならば、それを言い訳にしないこと。

当事者になったことがあるからこその
そっと寄り添うようにじんわりと暖かい言葉をくれた友もいれば
当事者には今のところ決してなり得ないながら
(なにしろその人は男性で、結婚する気も父親になる気も全くないようなので)
はっとするほど的確で、かつ彼らしい思いやりに溢れたエールをくれる友もいて
なおのこと、そう思ったのです。
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2007年10月29日

「みんながこんな本買って自分で作っちゃったら商売上がったりだよ!」と嘆く前に、するべきこと

ブックメッセ会場で目にした日本の出版社の手芸本は
本としての質も、紹介されている作品のレベルも高いものが多く
その充実ぶりが目の肥えた購買層の厚さを物語っているように思えて、おののく。
手でものを作るという世界は間口の広いことこの上なく
収入を得る手段では全くないにも関わらず
その気にさえなれば充分に職業足り得るほどの
精度の高い技術を持った人はいくらでもいて
そんな人たちの丁寧な「仕事」を見るたびに
自分の「仕事」との差、自分の「仕事」の質
そしてそこに与えられた金銭的な価値について
深く深く省みずにはいられなくなる。



ブックメッセ会場を後にし、人気の少ないフランクフルトの市内を少し歩き
シアトルスタイルのカフェにて友人とティータイム。
昨夏のワールドカップにベルリンで会って以来だから
話の種には事欠かないのだが、中でも印象的だったのは
彼女の友人が通っていたというデンマークの手芸学校の話。

北欧にはフォルケホイスコーレ(Folkehoejskole)と呼ばれる全寮制の学校があり
デンマークの場合、18歳以上であれば学歴や国籍を問わず入学が可能。
友人の友人が入学したホイスコーレでは
洋裁から編み物、織物に染色、刺繍の類に始まって
およそ考え得る限りの手芸の数々を高いレベルで学ぶことができる。
学校は辺鄙なところにある上に全寮制だから他にすることもなく
下界の俗事に煩わされずに技術を磨くには申し分のない環境ではある。
なにしろ針と糸さえあればいくらでも寝食を忘れられる人達の集まりなので
研修旅行のバスのなかでも皆うつむいてちくちくちくちく手を動かしているのだとか。

では私はその針と糸さえあれば、の人であるかというと決してそうは思わない。
布や革や紙やビーズが自分の掌の中で形を変えてゆくのは大好きだけれど
それは自分や誰かの頭の中にあるもの、未だ形を与えられていないものを
自分の手で具現化してゆく過程が楽しいのであって
作業そのものが好きなのとは少し違うのだ。
構想と設計と制作との境界線が常に自分の中で曖昧だから
結果一人で全部やっているけれど
もし役割を上手く分担してくれる人がいたら
自分の技術の及ばない部分は遠慮なくその人に任せてしまうだろう。



仕事にはせず、自分の楽しみとして済ませることのできるようなことを
仕事として敢えて選んでいるからには
何故それが自分の「仕事」なのかに簡単に答えを出してはいけない。
働いてお金をもらうのに、他のことでは何故だめで、何故それを選んだのか。
決して多くはなかった可能性の中で
たぶん一番上手くやれそうだったことを選んだつもりだったけれど
見回せばいくらでもいる比較対象の中で
自分がある程度は非凡であるのかもしれない、とは思えても
傑出して優れているとか、選ばれるに値する存在である、と思えたことなんて
私を評価してくれる人に対して申し訳なくなってしまうほどに
本当は一度だってないのだ。

子どもが産まれようと母親になろうと
行けるところまでは行かなくては。
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2007年07月23日

分別

歩いていたら道端に仔猫が捨てられているとする。
1匹2匹なら連れて帰れるし、飼える。養える。
3匹。ちょっと躊躇する。
4匹5匹。さすがに大変かも、と思う。
10匹いたらどうだろう?20匹では?



目に飛び込んでくるもの全てに関わることなんて出来ない。
私の持つ力はあまりにも貧弱だ。使い道は限られている。

手を伸ばせる場所にあるものに片端から手を伸ばそうとして
結局どれもつかめなくなるのではないか。
あるいは一番つかみたかったものを取りこぼしてしまうような。

こわくはない。けれど愚かだな。もしそんなことになったら。

でも軌道修正の仕方がわからないのだ。



キティは両腕いっぱいの仔猫を抱えて途方に暮れたりしない。
目につくものにいちいち関心を示したり憤慨したりしない。
自分のことだけで頭がいっぱいなのかというとそうでもない。
その都度反応したりしない、というだけで
問われればちゃんと答えられる。
優先順位がつけられる人なのだ。



とても無関心ではいられないこと
無関心でいてはならない(ような気がする)ことが多すぎて
ねえ誰か私に遮眼帯をつけてください。
一つのものだけ見つめて走れるようになったら
もっと早くもっと遠くまで行けますか?
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2007年06月05日

矛盾・六ヶ所止めましょうよ企画

坂本龍一氏による"STOP ROKKASHO"プロジェクトに
この度、ご縁あって関わることになり
買付の仕事の合間に
武田徹『「核」論 鉄腕アトムと原発事故のあいだ』を再読しています。

公式には私の立場は
「青森県六ヶ所村にある核燃料再処理工場による
 放射能汚染の危険性を訴える」
というプロジェクトの主旨に賛同した人間、ということになります。
が、本音は実はちょっとずれたところにあって
プロジェクトの公式ウェブサイトにリンクを貼らず
武田氏の本には貼る、というのも、そのささやかな表明のつもり。

(興味のある方はSTOP ROKKASHOで検索してみてください)

(そもそもこの公式サイト、危機感を強調するための配色なのでしょうが
 目がチカチカするし肝心な情報は載せてないし、もう暴力的ですらあります)



 反核運動みたいなものが、
 結局、どういう成果をあげてきたかというと、
 ぜんぜん、成果をあげてきていません。
 反核運動をやろうとするのはえらいかもしれませんが、
 やってると、すぐに生き甲斐になってしまうんです。
 かえって臨界事故みたいなものが起きている。
 そんなにダメな運動だったら、
 もう、やりかたそのものを変えたほうがいいという、
 そういう論理的な展開が、ぼくの考えです。
 事実として、運動の効果がここまでなかったら、
 やりかたが間違えているんだろうという考えが、
 あって、しかるべきだと思うんです。

 (ほぼ日刊イトイ新聞 武田徹インタビュー
  「ポジション・トークに気をつけて。」より)




東北電力の広報によれば
胸部にレントゲンを受けることによって浴びる放射線の量は
1回あたり0.1〜0.3ミリシーベルト。
1年間に人が受ける放射線の世界平均、2.4ミリシーベルト。
全身CTスキャンを一度受けると
7〜20ミリシーベルトの放射線を浴びる計算になるが
200ミリシーベルト未満の放射線被曝による臨床症状は確認されていない、という。
ただし、どんなに微量であっても例えば妊婦へのX線が避けられているのは事実。

これに対し、日本の原子力発電所からの放射線放出量は年間0.001ミリシーベルト。
一方、坂本氏の主張では、六ヶ所村の再処理工場からは
この年間放出分の「放射能」がわずか1日で放出されているという。
1年間浴び続けてもCTスキャンを1回受けるよりは1桁少ないのだが
そういう具体的な例や数字に基づく根拠を挙げずに
再処理工場は怖いんだよ!という安易なイメージのみを語るのはフェアではない。
かといって、最悪中の最悪の事態が起こった時のことを考えれば
放射線放出量の少なさだけを根拠に「『だから』安全なんですよ」
という主張もあんまりにお粗末だ。



STOP ROKKASHOプロジェクトの説明の足りなさ
展開の安易さには賛同しかねるけれど
少なくとも「今までの反核運動みたいなもの」からは
わずかでも脱皮しようとしている姿勢が見えるように思い、参加を決めました。

事故は起こり得るもの、完全には防ぎ得ないものであることを前提に
考え得る限り最悪の事故が起こったとして、それがどこまで甚大なものなのか。
それを計算に入れた上で、そこまでして使う価値があるものかどうか。
使う価値がある/ないという判断の根拠、その妥当性。
使いたくないし、もう使わない、と判断することにどこまで現実味があるのか
現実味がないとしたら、どうやったら現実味を持たせることができるのか。
そのために必要な仕事であれば私、頑張りますよ、というスタンスで行くつもり。



どんな痛ましい飛行機事故の後でも(2001年9月11日以降でさえ)
旅客機に乗る人の数は減りはしても決してゼロにはならないのは
十数時間で太平洋を渡りユーラシア大陸を横切り
椅子に座って眠ったままでも旅ができるような乗り物が他にないから。
例え落ちるかもしれなくても、摩天楼に突っ込むかもしれなくても
そういうものに乗って移動することが多くの人にとって必要なことだから。

その意味で原発は飛行機とは異なる。
電気は必要だけれど、他に発電の手段があるのならば
こんなにも扱いに困るゴミを出すような発電所を
わざわざ稼働させなくたっていいじゃないですか、と言いたい。

そして、「危険」なものをいたずらに怖がって遠ざけようとするだけの人
そもそもの電力消費量をなるたけ減らしてゆくことに関心の低い人
六ヶ所の海でサーフィンするのは気分が悪いだなんていうくせに
人間ドッグでCTスキャンを受けるのは抵抗のない人にも文句を言いたい。



ところで資料をいろいろ読み集めていたらこんなの見つけました。
http://store.yahoo.co.jp/mono-pets/sv-010.html
「隣国ミサイルや、テロ、原発事故などでの生存率を高めるアイテムです」
という売り文句がかっこよすぎます。
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2007年04月20日

限定したくない

最初は、ただ強くなりたかったのです。
精悍さ、逞しさが欲しかった。
それで、男の子になりたいと願ったけれど叶いませんでした。
無駄な抵抗をやめて言葉遣いを改め、きちんと食事をとり
やがてスカートを穿くのも案外楽しいことに気づきました。
今でも男性用の靴や服や小物を身につけるのは大好きですが
銘仙の着物やレース、ワンピースや花柄のシフォン、なども同じくらい好きで
服装や言動や思考を「可愛い」と褒められるのもとても嬉しい。
性差を意識せずに人と触れあうことが出来るととても快適に感じますが
異性としてはっきり意識した態度を取られることを望む場合だってある。

極めて恣意的で我儘だということは自覚しているのです。
それでも自分を限定したくはないのです。
posted by YUKINO MATOI at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事の記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

何でもできると思えるほど傲慢ではない

例えば私は生物学的に父親になることはできない。絶対に。
下腹部にメスを入れることなく子を育まない身体をつくることもできない。
2007年現在、日本で法的に認められている方法にのみ従うなら
自分の子宮と産道を用いずに血のつながった母親になることもできない。

それでも思っていたいのだ。
行きたいところがあればどこへでも行けると。
身体は行けなくとも、せめて魂は。創造力は。

確かに子どもは欲しいし胎内で育んで産み育てたいとも思うが
女であるというだけで期待され、割り当てられ
外部から規定されているところの役割に対しては
逆らってみたくもなるではないか。
自分に備わっている機能を稼働させることに異議はないが
引き受けた覚えのないことまで押し付けられては
反発したくもなるではないか。
なまなかな覚悟では行けない場所に行くのだもの
行くのならば自分の意志で選び取りたいではないか。
posted by YUKINO MATOI at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事の記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

禁止事項

一方的に無意味かつ無遠慮に他者に押し付けてはならないもの。
憧れ 理想 印象 役割 立場 定義 意味
指針 思想 価値 判断 意志 規律 解釈 などなど。


コモン・センスという意味合いで「普通」というのは構わない。
平凡、特記に値しない、という意味での「普通」も構わない。
しかし、少数派に対する多数派を指す言葉として
「普通」といってはならない。
posted by YUKINO MATOI at 06:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事の記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月18日

あたらしいもの

言葉のやりとりをキャッチボールに喩えることがあるけれど
キャッチボールでは物足りないときも少なからずある。
投げて寄せられたものが自分の手の平に収まるだけでは物足りないのだ。
できればそれを咀嚼し、味わい、飲み込んで消化し、涵養したい。

「世の中にはそういう風に考える人もいるだろう」
ということを相互に確認して終わることしか出来ない議論は
不毛とは呼べないにしても、寂しい。
対話の相手に自分が敬意なり好意なりを抱いているなら、なおさらだ。
飛んできたものを受け止めて投げ返すことの繰り返しだけではなく
投手としての、捕手としての有り様そのものを互いに確かめてゆくような
わずかでもいいから、あたらしい輪郭を縁取ることのできるような
そういう言葉を放ちたい。

そのためにはどうも私は言葉を発する間が悪過ぎるようだし
そもそも頭の回転がそこまで早くはないのだよなあ。悔しい。
posted by YUKINO MATOI at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事の記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月25日

示されて、そこにあるもの

生まれたての赤ん坊が全身で己の存在を主張する姿は美しい。
主張することと眠ること以外に何もない、清らかな姿。
欲望を、本能を、ただただ訴え、庇護と愛情とを求める姿。



示す、ということに無頓着である人間を、私は許すことが出来ない。
そこに示されているもの、他者が示そうとしているものに対し
あまりに無配慮な人間もまた、許すことが出来ない。
己が示しているものを他者が知覚することによって
初めて己は己としての存在を獲得できるのだというのに。



私が、私の力のほとんどが注ぎ込んでいるのは
私が世界に対して何をどのように示すか
それを思考し実行に移す一連の過程にであり

私が最も注意と敬意とを払って見つめているのは
他者が何をどのように思考して
それをいかに提示してゆくのか
殆どががそういう事柄に関してであり

逆に言えばそれ以外のことに関しては
人知の及ばないところで起こる出来事
例えば信じられないくらい鮮やかな空の色や
砂漠に咲く花びらのかたちのような
そういうものに対するエネルギーを別にしたら
まるで興味らしい興味を持たないのだ、私は。
posted by YUKINO MATOI at 08:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事の記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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