2011年05月30日

人の手

子どもを育てながら少しずつ形になっていた想いですが、子どもたちには「人が手をかけるということ」にきちんと思いを巡らせられる人、想像力を働かせられる人になってほしい、ここ何日かでそう切実に思いました。人の住まない地、広大な砂漠、切り立った岸壁、深い海の底、そんな場所でもない限り、およそ私たちの暮らす場所、日常生活の範囲内で見るもの触れるものはほぼ全て、誰かが手をかけてその形にしたものばかりです。八十八の手を経て口に入るのはなにも米だけではない。きみたちの服は、絵本は、靴は、きみたちの暮らす街は、血の通った人々の一つ一つの作業を経てここにある。それが安手のコップ1つであれ、上等のグラスであれ、みな等しく。露地栽培のオーガニックのトマトであろうと土の匂いも日の光も知らない工場育ちトマトであろうと、多くの人の手を経てきたという点では全く等価である。ものだけではない。人だって人が育てるのだもの。きみたちもきみたちの家族も友人も通りすがりの人も。きみたちの食べるパンを店で包んで売ってくれた人、パンを焼いた人、パンにする麦を育て製粉しパン工場に運んでくれた人、その全てに関わる人が人によって育まれているという気の遠くなるような広く深いつながり。

人知を越えたものに対する畏敬の念とは別に、誰かがどこかでしてくれた仕事に繭のようにくるまれて生きているのだということを心のどこかに刻みつけて生きてほしい。心からそう願っています。



というのは昨日今日思いついた話ではないのですが、たまたま最近話をした人に「服ってどうやって作るんですか?」と聞かれて、話しているとどうもそれは「パターンから自分で引いてるんですか?」「布はどこで見つけてくるんですか?」というレベルの話ではなく、その人にとっては服は服として元素のように「はじめからそこに在る」もので、シャツ一つとってみても誰かが綿花を育て収穫し糸を紡ぎ布を織り出来上がった布にデザインを描き型紙を引き裁ち縫った成果としてそこにあるものなんだ、ということをこれっぽーーーーーっちも考えたことのない人なんだなあという、なんともがっくりする会話を交わしたことで、あああああうちの子たちがこんな大人になったら嫌だなあああああと強く強く思った、というのが大きな動機です。
posted by YUKINO MATOI at 19:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月25日

皐月の終わりに

江國香織の本数冊を読み返す。

大人になる、ということを、自分だけではいかんともしがたい現実を飲み込み、折り合いをつけて生きていく(という決意をする)こと、ないしはその現実を見据えてそれでもなおそこへ切り込んでゆこうとすること、だと定義するのならば、江國香織の物語に出てくる人たちはどこまでいっても、20代でも30代でも、結婚して子どもを産んで彼らが高校生大学生になる歳になってすら、ずっとずっと子どものままだ。いかんともしがたい現実の固まりの前に、戸惑い、途方にくれ、困惑し、もてあましている。蚊の多いどくだみの匂いの縁側でアイスをなめながら足をぶらぶらさせていた、幼い頃の長い長い夏休みの困惑をそのままに。

懐かしむ、という行為は自分が当事者ではなくなった地点からでなくてはできない。
いつまでも大人になりきれていない気がしていたのに、彼らの側から見れば、私はとっくに「向こう側の人間」たりえるほど、逞しくもずるくも分別くさくもなっていたことを思い知って本を閉じ、物置に運ぶ。

posted by YUKINO MATOI at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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