子どもを育てながら少しずつ形になっていた想いですが、子どもたちには「人が手をかけるということ」にきちんと思いを巡らせられる人、想像力を働かせられる人になってほしい、ここ何日かでそう切実に思いました。人の住まない地、広大な砂漠、切り立った岸壁、深い海の底、そんな場所でもない限り、およそ私たちの暮らす場所、日常生活の範囲内で見るもの触れるものはほぼ全て、誰かが手をかけてその形にしたものばかりです。八十八の手を経て口に入るのはなにも米だけではない。きみたちの服は、絵本は、靴は、きみたちの暮らす街は、血の通った人々の一つ一つの作業を経てここにある。それが安手のコップ1つであれ、上等のグラスであれ、みな等しく。露地栽培のオーガニックのトマトであろうと土の匂いも日の光も知らない工場育ちトマトであろうと、多くの人の手を経てきたという点では全く等価である。ものだけではない。人だって人が育てるのだもの。きみたちもきみたちの家族も友人も通りすがりの人も。きみたちの食べるパンを店で包んで売ってくれた人、パンを焼いた人、パンにする麦を育て製粉しパン工場に運んでくれた人、その全てに関わる人が人によって育まれているという気の遠くなるような広く深いつながり。
人知を越えたものに対する畏敬の念とは別に、誰かがどこかでしてくれた仕事に繭のようにくるまれて生きているのだということを心のどこかに刻みつけて生きてほしい。心からそう願っています。
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というのは昨日今日思いついた話ではないのですが、たまたま最近話をした人に「服ってどうやって作るんですか?」と聞かれて、話しているとどうもそれは「パターンから自分で引いてるんですか?」「布はどこで見つけてくるんですか?」というレベルの話ではなく、その人にとっては服は服として元素のように「はじめからそこに在る」もので、シャツ一つとってみても誰かが綿花を育て収穫し糸を紡ぎ布を織り出来上がった布にデザインを描き型紙を引き裁ち縫った成果としてそこにあるものなんだ、ということをこれっぽーーーーーっちも考えたことのない人なんだなあという、なんともがっくりする会話を交わしたことで、あああああうちの子たちがこんな大人になったら嫌だなあああああと強く強く思った、というのが大きな動機です。
posted by YUKINO MATOI at 19:45|
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